猫とおえかきと東京巡り

愛猫の写真とイラスト、時々東京観光も書きます

ひゃくにゃんいっしゅ

『ひゃくにゃんいっしゅ』総集編

2020年9月から開始したひゃくにゃんいっしゅ、百首目まで詠み終わりました。 百人一首は大抵の場合、中学や高校の授業で詠み以降は触れる事は少なくなります。 ですがある程度大人になってから読むと、この人の気持ちわかるなあとかこういう事ってあるよねと…

『ひゃくにゃんいっしゅ』百(最終回).順徳院(じゅんとくいん)

第84代天皇。99番後鳥羽上皇の第三皇子。父と共に承久の乱で幕府に敗北し佐渡に流されそこで崩御した。 定家に師事し歌の才能を磨いている。 貴族社会から武家社会へ。猫はそんな激動の時代でも、人々の心の癒しであったと思います。

『ひゃくにゃんいっしゅ』九十九.後鳥羽院(ごとばいん)

高倉天皇の第四皇子で第82代天皇。1221年の承久の乱で幕府に敗北し隠岐に流されその地で崩御する。 この歌は承久の乱の9年前に詠まれている。 イタズラをしたり吐いたり人を困らせるけど、やっぱり愛しいのが猫です。

『ひゃくにゃんいっしゅ』九十八.従二位家隆(じゅにいいえたか)

本名藤原家隆(ふじわらのいえたか)。鎌倉時代初期の公卿・歌人。定家の父、藤原俊成に和歌を学びその後出家する。 みそぎとは川で体を洗い汚れをはらう行事の事。 暖かい時期のみ川のそばでゴロゴロする猫達。

『ひゃくにゃんいっしゅ』九十七.権中納言定家(ごんちゅなごんさだいえ)

平安末期から鎌倉初期の歌人で83番皇太后宮大夫俊成の子。小倉百人一首の選者として知られる。 藻塩とは海藻を焼いて水に溶かして煮詰めて作る塩。 会いたい時に来ず、ふいに現れる。それが猫。

『ひゃくにゃんいっしゅ』九十六.入道前太政大臣(にゅうどうさきのだいじょうだいじん)

本名は西園寺公経(さいおんじきんつね)、平安末期から鎌倉初期の公卿で歌人。藤原定家の義弟。 鎌倉幕府との結びつきが強く、承久の乱では幕府に情報を知らせ幕府勝利へと導いた。 猫達が桜に上って暴れたので、桜の花が散りまくったとか。

『ひゃくにゃんいっしゅ』九十五.前大僧正慈円(さきのだいそうじょうじえん)

平安時代末期~鎌倉時代初期の天台宗の僧で四回に渡り天台座主を務める。兄には関白九条兼実がおり、政治にも関わっていた。 猫は仏典をねずみの被害から守るために船に乗って日本へ来ました。なので猫は仏教を助けた尊い存在なのです。

『ひゃくにゃんいっしゅ』九十四.参議雅経(さんぎまさつね)

本名は藤原雅経(ふじわらのまさつね)。鎌倉初期の歌人で蹴鞠に優れており、蹴鞠の一族として知られる飛鳥井家の祖となった。 砧(きぬた)は洗濯した布を棒でたたいて伸ばす道具。現在では使われていない。 お仕事中でも猫達は構わず集まって来るようです。

『ひゃくにゃんいっしゅ』九十三.鎌倉右大臣(かまくらのうだいじん)

源実朝(みなもとのさねとも)。鎌倉幕府第3代将軍。頼朝の次男。甥である公暁に暗殺される。 百人一首を撰じた藤原定家の弟子である為、和歌に優れていた。 猫達は魚を捕る手伝いをしていたそう。

『ひゃくにゃんいっしゅ』九十二、二条院讃岐(にじょういんのさぬき)

平安時代末期から鎌倉時代の歌人。内讃岐、中宮讃岐とも呼ばれる。源頼政の娘で二条院に仕えていたと言われている。 この歌は歌会の「恋と岩」のお題で作られたもの。 優しい猫は、いつの時代も人のそばにいて支えてくれます。

『ひゃくにゃんいっしゅ』九十一、後京極摂政前太政大臣(ごきょうごくせっしょうさきのだいじょうだいじん)

本名・九条 良経(くじょう よしつね)。平安時代末期から鎌倉時代の公家で歌人。父は九条 兼実。 和歌や書道に優れていたが38歳で急死してしまう。 ここでのキリギリスはコオロギの事。 寒い時は猫を懐に入れるのが一番。

『ひゃくにゃんいっしゅ』九十、殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ)

平安末期の女流歌人で、後白河天皇の第1皇女・殷富門院亮子内親王(八十九、式子内親王の姉)に仕えた。 多くの歌を詠み、後に出家して尼になったという。 猫も年と共に色が変わる事がありますが、海に出た位では変わらないかも。

『ひゃくにゃんいっしゅ』八十九、式子内親王(しょくしないしんのう)

平安末期から鎌倉時代の女流歌人で、後白河天皇の第3皇女。加茂神社に出仕した後、出家したとされている。 百人一首の撰者、藤原定家と恋愛関係だったが身分違いの為叶わぬ恋だったと言われている(諸説有)。 猫も一緒に恋の苦しみに耐えてくれたようです。

『ひゃくにゃんいっしゅ』八十八、皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう)

平安末期の女流歌人で、77番崇徳院の皇后皇嘉門院に仕えた。生没年は不明だがのちに出家したことが知られている。 この歌は「旅の宿で逢う」というお題で詠まれたものである。 猫達が遊ぶ入り江が有名なんだとか。

『ひゃくにゃんいっしゅ』八十七、寂蓮法師(じゃくれんほうし)

平安後期の歌人で僧。出家前の名前は藤原定長(ふじわらのさだなが)83番皇太后宮大夫俊成の甥。 新古今和歌集の選者となったが完成前に死去した。 霧を作り出す黒猫。雨のしずくなんて気にもしないようです。

『ひゃくにゃんいっしゅ』八十六、西行法師(さいぎょうほうし)

平安後期の歌人。武士であったが出家し日本各地を旅しながら歌を詠んだ。2300もの歌が伝わっている。 その生涯を書いた「西行物語」が残されている。 猫に関連した失恋の思い出があるのかもしれません。

『ひゃくにゃんいっしゅ』八十五、俊恵法師(しゅんえほうし)

平安後期の歌人。74番俊頼朝臣の子。 東大寺の僧で、坊に歌林苑という歌人達の集まるサロンを作り、歌会を開いた。 弟子に方丈記を執筆した鴨長明がいる。 悩んでばかりいて遊んでくれないので、猫もご立腹の様子。

『ひゃくにゃんいっしゅ』八十四、藤原清輔朝臣(ふじわらのきよすけあそん)

平安後期の歌人。79番左京大夫顕輔の次男だが父とは仲が悪く出世もあまりできず、中年以降になり歌の評価が高くなった。 二条院から勅撰集の編纂を命じられたものの、二条院が死去したため撰者にはなれなかった。 猫さんは病気なのかもしれません。今は辛く…

「其のまま地口 みゅ〜央線④」 茅野(ちの)/ちか

超ドアップの近すぎる猫。 この近さは愛猫との、幸せな距離感。

『ひゃくにゃんいっしゅ』八十三、皇太后宮大夫俊成(こうたいごうぐうのだいぶとしなり)

平安後期の歌人・公家で、本名は藤原俊成。百人一首の撰者である藤原定家の父。 皇太后宮大夫は皇太后の財産を管理する役職(現在はその役割は宮内庁が一括)。 鹿も猫も、山の中でひとりでいるのは寂しいと感じるのでしょう。

『ひゃくにゃんいっしゅ』八十二、道因法師(どういんほうし)

平安後期の歌人で比叡山の僧。本名は藤原敦頼(ふじわらのあつより)。この歌を詠んだ時の年齢は90歳。 あまり出世はしなかったが歌会が好きで、出家後も色々な歌会に参加していたという。 猫は心の支え。 叶わない恋に傷ついても、猫が癒してくれるでしょう…

『ひゃくにゃんいっしゅ』八十一、後徳大寺左大臣(ごとくだいじのさだいじん)

平安後期の歌人で本名は藤原実定(ふじわらのさねただ)。百人一首の撰者である藤原定家のいとこ。 和歌の才能に恵まれ、また教養も高い人物であったという。 明け方にやって来る暁の猫。月に代わってやってきたようです。

『ひゃくにゃんいっしゅ』八十、待賢門院堀河(たいけんもんいんのほりかわ)

平安後期の歌人。白河天皇の皇女令子内親王に仕え、令子内親王が待賢門院であったためこの名で呼ばれていたとされる。 当時から歌人としても評価が高かった。 黒猫の毛が乱れるほどに、一晩中猫と一緒に遊んでいたらしいです。

『ひゃくにゃんいっしゅ』七十九、左京大夫顕輔(さきょうのだいぶあきすけ)

平安後期の歌人。 崇徳上皇に命じられ『詞花和歌集』(しいかわかしゅう)を編集するなど、歌会で活躍した。 この歌は崇徳上皇へ贈ったものと言われている。 とても美しい情景歌。月を背にした猫の白さも神秘的です。

『ひゃくにゃんいっしゅ』七十八、源兼昌(みなもとのかねまさ)

平安後期の歌人。生没年不詳。宇多源氏の家系で歌会等で活躍したが、あまり出世には恵まれず、その後出家している。 淡路島からやって来る船で猫がきて関所を占拠し、明け方に騒ぎ出すようです。

『ひゃくにゃんいっしゅ』七十七、崇徳院(すとくいん)

第75代天皇。74代鳥羽天皇の子であるが鳥羽天皇の妃・藤原璋子と72代白河天皇との不義の子であるという説がある。 これらの事や政治的な衝突により保元の乱が起こり、敗れた後、讃岐に流されその地で崩御した。 この歌は愛しい人への想いの他、争う事となっ…

『ひゃくにゃんいっしゅ』七十六、法性寺入道前関白太政大臣(ほっしょうじにゅうどうさきのかんぱくだいじょうだいじん)

本名藤原忠通(ふじわらのただみち)平安後期の後期~末期の公卿・歌人。 この歌は崇徳天皇の御前で「海上の遠望」をテーマに詠まれたもの。 しかし後に起こった保元の乱で、崇徳天皇と忠通は敵対する事になる。 波の様に大群で押し寄せる白猫。

『ひゃくにゃんいっしゅ』七十五、藤原基俊 (ふじわらのもととし)

平安後期の公家で歌人。藤原道長のひ孫だが出世には恵まれなかった。 この歌は息子を要職につける約束を76番藤原忠通に頼んではいるものの、それが果たされず、嘆きの心情を詠んだもの。 左右で全然絵が違う物は初めてですね。

『ひゃくにゃんいっしゅ』七十四、源俊頼朝臣(みなもとのとしよりあそん)

平安後期の歌人で71番大納言経信の三男。篳篥(ひちりき、雅楽で使われる笛)の名手で演奏家として活躍した。 この歌は歌会で「祈っても叶わぬ恋」をお題に詠まれたもの。 猫はきまぐれ。なかなか振り向いてもらえない事もあります。

『ひゃくにゃんいっしゅ』七十三、権中納言匡房(ごんちゅうなごんまさふさ)

本名大江匡房(おおえのまさふさ)。平安後期の学者・歌人。59番赤染衛門の曾孫。 学者の家に生まれ文才があり、71代後三条天皇に重用され政治改革のブレーンとして重要な役割を果たしている。 霞の様に白い猫達が、桜の木を遊び場にしているとかいないとか。